大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京地方裁判所 昭和43年(レ)320号 判決

控訴人(第一審被告) 小池俊

右訴訟代理人弁護士 青柳孝

同 青柳孝夫

同 五味和彦

被控訴人(第一審原告) 大木ハル

右訴訟代理人弁護士 伊藤幸人

主文

本件控訴を棄却する。

原判決主文第二項を次のとおり変更する。

控訴人は、被控訴人に対して、別紙物件目録記載の建物について所有権移転登記手続をせよ。

控訴費用は控訴人の負担とする。

事実

第一、求める裁判

一、控訴人

原判決を取消す。

被控訴人の請求を棄却する。

訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。

との判決。

被控訴人

主文第一、二項と同旨

の判決。

≪以下事実省略≫

理由

一、訴外小池修平が本件建物を所有していたこと、同訴外人が、昭和三七年八月二一日に死亡したこと、被告が、右訴外人の二男であることは、当事者間に争いがない。

二、≪証拠省略≫を総合すると、次のとおり、認めることができる。

1  訴外小池修平は、明治二八年一二月二八日、出生し、大正八年一月二五日、妻花子と婚姻して、同年一二月一〇日出生の長女を頭に昭和七年九月二五日出生の三女を末とする静子、克彦、月子、被告(同五年四月一三日出生)、梅子の五子をもうけた。訴外小池修平は郷里の山梨県○○○郡○○町で小学校教員をしていたが、大正の末頃上京し、小学校教員などをした後、釣道具店を営んでいた。原告は、明治三八年四月二七日、生れである。

2  原告は、昭和八年頃、訴外小池修平と知り合い、同訴外人と内縁生活を初めた。

原告と右訴外人は、昭和一三年頃本件建物に移り住んだが、爾来、原告は、自ら、小池えみ子と称し、隣近所の者達からは、右訴外人の妻として扱われ、修平とも円満であった。

3  訴外小池修平の妻花子は、山梨県○○○郡○○町に別居して農業に従事し、昭和八年頃までは、しばしば上京し、訴外小池修平のもとをおとずれていた。長女静子は、昭和一二年頃まで、父修平と共に居住し、あるいは同人のもとに出入していた。昭和八年頃以降は、花子は上京して右訴外人をおとづれたことも、同人と夫婦生活を共にしたこともなく、修平も冠婚葬祭等以外は帰郷することがなかった。

4  訴外小池修平と被告とは、昭和三三年頃まではほぼ円満であった。修平は、昭和三二、三年頃、本件建物購入資金の援助を被告に申入れたが、被告は修平の妻である母花子に反対されて右援助を実現するに至らなかった。

その後、昭和三四年、被告が無断で修平の山林等不動産の所有権移転登記をしたり、処分したことから、修平は、昭和三五年頃、弁護士伊藤幸人に依頼して被告を刑事事件として告訴する準備を進めたが、昭和三五年、親類の訴外小池信正等が仲に入り、同年六月三日、被告が修平に詫びを入れ、同人に金一五万円および同人の生活費の一部を支払うことを約して、納った。しかし、修平は、右事件落着後も被告及び花子等に対する不信感を解消するに至らなかった。

5  訴外小池修平は、昭和三五年頃、弁護士伊藤幸人に自分の死後の財産の措置を相談したが、右弁護士は東京にある財産は原告に与えるべきも、故郷にある財産は紛争のもととなるから原告に与えることを思い止まるべき旨述べた。

修平は、昭和三三年四月五日頃、賃借中の本件建物を訴外清川幹夫外二名から買受け、同年六月三日、所有権移転登記手続を経由した。

訴外大木一郎は、原告の甥であるが、昭和三二、三年頃は、原告と訴外小池修平と共に一緒に生活していた。一郎は、将来、修平と原告の養子となり、同人らを世話することになっていたので(現在、一郎は、原告の養子となっている)、本件建物の買受け代金を含めて金二七万円ぐらいを修平に出捐した。修平は、右のように、原告の甥の一郎が本件建物の買受け代金を負担したことからも、本件建物は、一郎の叔母の原告の所有にするのが相当であると考えていた。修平は、昭和三四年一一月一九日頃、訴外清川幹夫外二名から本件建物の敷地八五・〇五平方メートル(二五・七三坪)を買受けたが、その買受け代金の一部約五万円を原告が負担したので、右土地を原告のものとすることにして、右同日、右土地について、原告名義で所有権移転登記手続を経由した。修平は、原告に対して、昭和三四年頃、実印、本件建物の登記済権利証を交付し、ときおり、本件建物は、原告のものである旨言っていたが、昭和三七年盆頃にも、「家の名義はお前のものにしておけよ。」と述べた。

6  訴外小池修平は、昭和三七年八月一一日発病し、同月一三日、○○病院に入院し、手術を受けた。原告は、家政婦と共に看病のため修平に付き添っていたが、修平は同月一七日頃教員時代からの旧友大田三郎を病院に呼び寄せ、同人に対して、遺志を口述し、原告には昭和八年以来世話になり感謝に堪えない、原告の行く末が心配である、郷里には田畑があるから全部とは言わないがその幾分でも与えるようにしてほしい。郷里には帰りたくないから遺骨は先祖にはすまないが原告が永久に保管してほしい等の点を口述手記させた。修平は、同月二〇日まで比較的経過がよいようにみえたが、同月二一日、死亡した。

7  昭和三七年九月三日頃、原告、被告のほか、訴外大田三郎などが集まった際、本件建物を原告の所有とし、修平の郷里の財産を被告のものとする等の話が出たが、被告は、兄などに相談する旨述べたので、話が最終的にまとまるまでに至らなかった。

8  被告は、昭和四〇年一二月二三日、本件建物について、相続を原因として、所有権移転登記手続を経由した。

以上のとおり認められる。≪証拠判断省略≫

三、前記認定事実より、訴外小池修平は、昭和三三年四月五日頃に本件建物を買受けた頃より、本件建物は、買受け代金を負担した訴外大木一郎の叔母の原告の所有にするのが相当であると考え、また、昭和三四年頃以降、実印、本件建物の登記済権利証を原告に交付していたが、被告および花子等に対する不信感と原告の行く末に思いを至し、昭和三四年頃以降、遅くとも、昭和三七年八月頃までの間に、原告に対して、本件建物を贈与する旨約したことを認めることができ、右認定を妨げるに足りる証拠はない。

四、被告は、訴外小池修平の原告に対する本件建物の贈与は書面によらないものであるから、修平の相続人として右贈与を取消すと抗弁する。

訴外小池修平の原告に対する本件建物の贈与が書面によらないものであることは当事者間に争いがないが、前記第二項において認定したとおり、原告は、昭和一三年頃より修平と内縁の夫婦として、本件建物において同棲してきたところ、修平は、昭和三四年頃以降、実印と本件建物の登記済権利証を原告に交付して、昭和三四年頃以降昭和三七年八月頃までの間に、原告に対して、本件建物を贈与する旨約したのであるから、修平は、遅くとも、昭和三七年八月頃までの間に、原告に対して、簡易の引渡による本件建物の占有移転を行なったものとみるべきであり、本件建物の贈与は、これにより履行を完了したと認めることができる。

従って、被告は、右贈与を取消すことができない。

五、更に被告は、本件贈与契約は、訴外小池修平が原告との不倫行為を維持するためになされたものであるから、公序良俗に反し無効であると抗弁する。

ところで原告と修平との内縁関係は前記第二項において、認定した事実によれば、昭和八年頃から修平の郷里を遠く離れた東京において平穏公然に家庭生活をなし、修平とその妻花子とは事実上離婚の状態にあって、その子女とも疎隔していたこと、修平は原告と同棲以来三〇年近くも苦楽を共にし、むそ路を半ばも過ぎたので、原告の行く末を案ずる余り本件家屋を原告に贈与すべく意志表示をしたことが窺える。右のような事情のもとでは右贈与契約が被告の主張するような専ら不倫の関係を維持することのためになされた公序良俗に反するものとは認めることができない。被告の右抗弁も又理由なきものとして採用するに由ないものである。

六、以上により、原告が、昭和三四年頃以降昭和三七年八月頃までの間に、訴外小池修平から、同訴外人所有の本件建物の贈与を受けて、その所有権を取得したこと、被告が、相続により、右訴外人の原告に対する贈与契約に基づく本件建物の所有権移転登記義務を承継したことが認められるところ、被告は、原告の本件建物の所有権を争っているから、原告の請求は、いずれも理由があり、正当として、これを認容することができる。原判決は、結論において、当裁判所の判断と一致するから、本件控訴は、理由がなく、失当としてこれを棄却することとする。ただし、右贈与契約がなされた日時については、前記のように、昭和三四年頃以降昭和三七年八月頃までの間と認めることができるが、昭和三七年八月二〇日と認めることはできないから、この部分についての原判決主文第二項を変更することとする。

よって、訴訟費用の負担について、民事訴訟法第八九条、第九五条、第九六条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 石川義夫 裁判官 菅野孝久 豊田健)

〈以下省略〉

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例